自由にロックは必要ねーわ、って話。
ネドじゅんさんの三脳研究所って言うオンラインサロンに入会してみました。(数ヶ月お試しのつもり。宗教じゃないよ)
見るだけ会員なので、YouTube見る代わりに食器洗いながらお話聞いてる感じです。
左脳優位をやめ、自動思考を止める事を目的としてる研究所です。
自分は未だ「今ここ」に出たり入ったり程度なんですが、
こうやって毎晩「思考が停止した人」のお話を聞いていると、
その動画を作った人が、本当に「思考が停止した人」なのか「一時的に停止してるだけ」の人なのか、音を聞いてると分かるようになってきました。
エセ?で悟りを説いてる、もしくは悟るという意味を私とは違う定義で捉えてるスピ系の人の動画は、やはり全体に音が詰め込まれすぎていて、空間がないのです。
ガチャガチャうるさい。
思考が停止した人の出す音は、ただそこに映ってるだけでも、何か奥に空間があるのです。
まぁ私も日常生活は左脳まみれなので、エセの人と同レベルです。
最近は「自分の中心の位置」がハートより下りはじめてる感じがあるものの、
どーしても第3チャクラで引っ掛かるのです。
第3チャクラを内観すると咳が猛烈に出始めるので、内観すらも中断されます。
よっぽか見たくないんでしょう。
それでも第3チャクラに留まっていたところ、
昨夜は突然「自由にロックは必要ねーわ」と閃きました。
中学時代、Gun’s & Rosesとかから始まり、NIRVANAとRageとかLinkin Parkとか延々リピートしながら、ピアノ教室にチャリ通する女子でした。
U2が多用するSus4のコード聴きながら
「これが自由だー」みたいな感覚を、自転車(暴走中)の風と共に感じてたもんです。
自動車の方にはエライ迷惑かけたかも。
恥ずかし。
ロック=自由
みたいのが体に刷り込まれましたですね。
でもねー。
よく考えたら自由にロック(破壊、怒りの発散、解放)って不要なんだよね。
自由とロックは全然イコールじゃない。
そんな事に気づくのに30年かかっちゃったよ!
アホか。
自由を求めるスタイルも色々なのに、ロックじゃない人は自由を求めるタイプじゃないんだなー、
なんてちょっと思ってた感すらあります。
恥ずかし。
最近の若者の曲は、コードから転調から全て計算され尽くした楽曲で、
自由どころか鬱々とした引きこもり感が訴えられてるので、
今や自由という概念自体見つけられなくなってるのかもですが。
それで、じゃぁどこに自由があるのかと言えば。
頭より下にあるんですね。
自分と生命とが繋がってれば、自由もクソもないんですわ。
動物は何も考えなくても幸せに人生猫生とか送ってるわけで。
頭がゴチャゴチャ言ってるのを通り越して、
喉より下に自分が入ってくると、
ゴチャゴチャうるせーのが全部消えるのよ。
思考と自分は同一じゃないです。
感情も自分じゃないです。
「さみしー!」「腹たつー!」とかやってる時は、巻き込まれて自由どころじゃないんだけど、
ハートに手を当てて、その漠然とした感情エネルギーを内観してると、
単純にエネルギーは解消されていって、
自分という核は空間になっており、
自由とか不自由とか、そういうのもう無いの。
もうそういうスペースじゃ無くなっている。
結局「自分」という小さなスペースに入り込んでるから不自由なんでしょうね。
それを壊したくて破壊活動のロックに傾倒しても、結局そこも自由じゃないわけで。
そんな事に気づくのに過去培ってきた「ロック好き魂」が、
洗脳ばりに結構邪魔してたなぁ、と気づいたのでメモしておきました。
「No Music! No Life!」とか思ってる人は、それも気づきを歪ませる洗脳ですわ。
新たな視点でもう一度ロックについて考え直してみると良いかもですよね。
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