戦いを超えるために戦ってみる


先日ヤマトQの東京デモを見に行ってきました。
佐野美代子さんやらJcetiのグレッグさんもスピーチするかもっていうんで、、
「なぬ!そんな豪華ゲストが無料で聞けるのか!?」
と思わず釣られて行ってきました。
お目当てのグレゴリーさんは見られませんでしたが、
コミケデモの煉獄さん見つけました。(大分違う)
「マスクを燃やせ!ファイザーを超えろ!」と言う旗を振ってました。
世界各地のデモ映像とか見ながら、
「戦うってなんじゃろう」と去年暮れからずーっと考えてました。
どうなんだ?デモって必要なのか?正しいのか?
何度もガイドさんに問い合わせました。
なんで香港の若者たちは守られなかった?
ウクライナやカザフスタンだって、政府転覆するまで頑張ったのに、さらに支配を受けてるみたいじゃないか??
私のガイドさん達は「戦い」に参戦する事自体は反対しているようでした。
その時来たイメージをいくつか。
どこかの村みたいな映像ですが、
侵略者に「NO」と抵抗したことで、より一層敵に力を与えており、
最終的には敵(牢獄の管理人)が作った木枠の中に閉じ込められている村人たちの映像でした。
木枠はスカスカなのです。
逃げ放題です。
でも「NO」と言ったのに、それを押さえ込まれて閉じ込められてしまったので、
村人はみんな戦意喪失して、官吏にビクビクしながら木枠の中で大人しくしょんぼりしてしまうのです。
私は夜中に一人で木枠から抜け出し、山に逃げていきました。
他にも、
海の向こうで崩壊する島?を、少し遠くから見ている風景がありました。
その時、自分はそのカオスの中には身を置きませんでした。
みんながカオスの中で死んでから、その辺りに飛んでいって、数人のチームで歌とか歌っています。
戦争には参加せず埋葬だけしてた感じ?
それで良いんだ、と自分を納得させる気持ちと悲しみとが残っていました。
他にも、アジア支局や支店で働く日本企業の人たちを霊視すると、
第二次世界大戦当時、その地域で強烈に戦っていた英霊のような守護団がついているケースがありました。
戦争が終わった今も、当時の意識はまだ残っていて、あらゆるところで現世の人間に影響を与えているようです。
「Q」の人たちもそういう事なんじゃないかなぁ。
「戦う」ていう概念はまだまだみんなの頭の中に残っているようです。
じゃ、どうすりゃ「戦い」を超えられるのか。
あーだこーだ映像見て「戦っちゃいけないんだ、ネガティブな事言うのはやめよう」とか、そういう理論こねくり回してても、結論出なかったです。
なので、一回なにか個人的に戦ってみれば良いんだと思います。
「NO」って言ってみれば良いんだと思います。
親や先生や医者が「違う」と言おうが、
ガイドさんが「やらない方が良い」って言おうが、
やってみれば、その後見えてくる事ってのがあって、
悩むくらいなら、なんでも行動してみないとね。
その後に次の理解が起きるもんだな、と思いました。
デモで自分たちの意見を表明している人たちは、それはそれで素晴らしいですが、
私はやはりちょっと最終ゴールが違うみたいでした。
「Aはダメだ!Bだ!」と言って、戦いを通して主権を取り戻す人たちは、そういう未来が待っていて、それはそれで大団円。
最近、脳内にラベルのボレロの最後のループが鳴り響いています。
大団円は近い。
ただ、うーん、なんというか、、
私は最初から「C」なので、キチッと「C」の後始末をやってさっさと「C」に帰りたいなぁ、って感じ。
私のテーマソングはラベルのボレロじゃないんだな。。
感動のフィナーレはもうすぐ!なんだけど、「C」の仕事人たちはそのオーケストラの舞台進行係とか、会場閉め係って感じかな。
まぁなんのこっちゃ。
キチッと「C」の仕事をこなしましょっかね!